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仕事について:福山雅治の名言、言葉

「緒形さんとの出会いというのは本当に大きくて。小鳥は生まれて最初に見たものを親だと思うというじゃないですか。お芝居においてのすべての始まりは緒形さん、その位の存在です。」(SWITCH vol.35)

「愛はどうだ」で共演した緒形拳さんについて語った言葉。尊敬している俳優さんだそうです。

「挑戦できる環境があるのなら、すべてやってみたほうがいい」(AREA STYLE MAGAZINE vol.32)

2014年、はじめてアジアツアーをやった時にそう思われたそうです。

「多少折れたり飲みこんだり(中略)でも変わっていないことがあるとしたらそれは、続けていること」(PERSON vol.44)

自分のキャリア、仕事を振り返っての言葉。

「芸名にしとけばよかった。」(15年3月の言葉)

公共の場で「福山雅治さま~」と呼ばれると絶対見られるし、しんどいそうです。大変ですね・・

ちなみに芸名だったらどんな名前がいいかなというのは実は(自分なりに)考えたそうです。伊集院と言う名前がカッコイイと語っています。

「(デビュー当時、自分は)売れないなと思ってました。」(15年3月の言葉)

売れるということにデビュー当時は興味がなかったそうです。ただ、アルバムも3枚目まで殆ど売れず、売れないと続けられないと気づいてそこから売れることを考え出したそうです。

「いりませんよ、と言われたらそれまでなので、それまでは続けようかなと思っています」(15年3月の言葉)

ミュージシャンをやめようと思ったことはありませんか?という質問に答えて。
厳しい世界ですね・・

「自分が面白そうだと思っているのに、それによって福山雅治という存在の見え方や受け取られ方が変わってしまうならやらない、という選択肢はこれからもない」(Switch vol.33)

俳優としてもこの役をやったらどういう風に見られるかとは一切考えてこなかったそうです。

「(音楽活動休止の本当の理由について)今までちゃんと話したことはありませんが、簡単に言うと当時のマネージメントと外部制作スタッフ、そして僕自身の組み方の問題でした」(Switch vol.33)

マネージメントと外部制作スタッフがうまく折り合えなかったというか、それぞれの考え方がうまく機能しなかった・・・ということなのかなと思いますが、福山さん自身はそれでも前に進めていればそれでいいと思っていたようです。

ただ、「ごちゃごちゃともめているのが透けて見えるし、会議をしても生産的な話にならない。だったらその状態が落ち着くまでしばらく出さなきゃいいじゃんと思ってしまった」(Switch vol.33)そうです。

「(仕事で)怒られている状況の時よりも怒られなくなった時の方が怖いな」(14年10月の言葉)

キャリアを重ねたりしてゆく中で怒られたりすることがなくなったそうですが、それが不安になってきたそうです。

「僕はいいことも言われる反面、悪いことも言われるというのは職業柄の必然ですからね」(14年11月の言葉)

自分が見ていないところで叩かれたりすることもあるけど、そういう仕事だと考えているそうです。それを気にしていたら何もできないとも。

「憧れたものにはまったくなれてない。でも僕は長く足掻いているのが楽しくて、今となってはそれが良かったと思ってます」(13年6月 CUT)

デビューから25年経っての言葉。

「(ストレスとの付き合い方について)いざとなったら逃げようかな。(笑)」(14年1月の言葉)

いつでもとんずらできるように過去にとんずらした人の話を聞いたりしているそうです。(笑)勿論、冗談半分で・・・ということだと思いますが、潔さというか・・素晴らしいです。仕事に無責任ということではなくて、「自分自身が崩壊する位ならとんずら(笑)」だそうです。

「(二十歳の頃の)月収は8万円だったかな」(14年1月の言葉)

それ以前は年間3万円の養成契約期間だったそうで、ずっと渋谷のカフェバーでホールのバイトをしていたそうです。

その後にアーティスト契約を結んで、いつ仕事が入るかわからない・・・ということでバイトが出来なくなったそうですが、でも仕事は1個も入らなかったそうです。

だから、バイトはしてはいけないということだったけれど、日雇いで運送会社の倉庫の荷物の仕分けをしていたそうです。きつい仕事で初日の次の日は起き上がれなかったとか。

「僕にはこう見られたいという考えがなかったんです。」(オリスタ 4.22.2013)

音楽や芝居について語った時の言葉。自分が面白いなって思うことをやってきただけで、嫌なことは一切やってこなかったそうです。

「何でこの仕事ができてるかっていうと、好きでいてくれる、興味を持ってくれている人がいるから成立しているわけですよね」(13年2月の言葉)

「まず人に喜んでもらえたら、それが自分の喜びになる」と考えているそうです。

「ポジションが上がるほど、孤独なのはわかる気がするんです。」(週刊現代 12年10月13日

年を取るごとに「管理者だったり、経営者だったり、そういう人たちの抱えるジレンマや苦しみに興味が向くように」なったそうです。

「(出世を拒否する人がいることについて)やりたいことをやるには、管理職も経験しなくちゃいけないし。やりたいことをやらせてあげられる人にもなった方がいい。自分自身がやりたいことだけをやるということではなくて」(12年9月の言葉)

偉くなるということは、偉くなりたいからではなくて、偉くなるのはあくまでも手段であり、目的が別のところにある人が偉くなればいいんじゃないかなと語っています。

「僕は常にやる気満々です」(オリスタ 12.10.8)

やる気がないのは、やってることが好きじゃないから・・・だとか。そういう好きじゃないことをやらなければならない人は、「小さくても好きなことを見つけること」が良いと語っています。

「理解されないのは、観ている人の責任じゃなくて、観せてる僕らの責任なんですよね。」(オリスタ 12.10.8)

なので、視聴者であったり、リスナーに理解してもらおうとするなんて「おこがましい」と思っているそうです。

「(自分は)悲観的なんですよ。だから成し遂げたって思えない。」(12年9月の言葉)

成し遂げたと感じることはあるか?というラジオの読者からの質問について。ただ、週間オリコンチャート1位をとった時などは成し遂げたと感じるそうですが、それもすぐに忘れて次の作品に目を向けるそうです。

「僕が引退する日が来るとしたら、それは才能云々ではなく、自分の暗所へ向かう体力の尽きた時でしょう。」(WHAT's IN? 12年10月)

曲作りでは自分の弱さや嫌な部分と向かい合うため、それを続けてゆく難しさがあるのだと思いますね。

「俺ってね、受けしかできないんだよね、実は。受けの芝居しかできない。」(12年8月の言葉)

芝居について語った言葉。自分を大きく見せたりしない、謙虚な姿勢が感じられます。「主役向きじゃない」とも。

「僕の仕事はあんまり諦めなくて済む仕事。しんどいっちゃしんどいんですよ。誰も助けてくれないし、誰も教えてくれないし、自分でつかむしかないので。でもそれはしんどいと捉えるとそうだけど、自分の自由にできるんだから自由なんだと捉えてしまえば。」(12年4月の言葉)

そう思うことで若くいられるのではないかなと答えている。捉え方を変えることで感じ方も変わる・・・そう示してくれたのかも知れませんね。

「ある種、ときめくのが仕事みたいなところがある。」(12年4月の言葉)

「どんな仕事にも情熱を傾けられるポイントであるとか、ときめくポイントってのは存在しているような気がするんです」(12年4月の言葉)

自分の仕事について語った時の言葉。

「例えば、1日50個しか作らないけど、すぐ売り切れる饅頭屋、みたいな生き方がいいなと思う。」(「なぜ福山雅治は俳優でも一流になりえたか」さくら真 p.129)

細々していてもしっかりと極めていて、これで生きているというプライドを感じられるような生き方がいいと語った時の言葉。

昔はいい車に乗って、高級マンションに住んで・・・ということに憧れていたけども、「今は喜んでくれる人がいるものを細々、淡々と作っていきたい」と語っています。この時、福山さんは30歳。その後の楽曲作りはまさにこの時語ったような、1つ1つ丁寧に作り込まれた作品になっているように感じます。

「感動をもらったところから始まったんです。音楽だったり、映画だったり、いろんなものからもらった。だから僕は感動を返したい、与えたいと思う。」(「SWITCH」 VOL.26)

「利己的なことでは人は感動しない」、「自分のためだけに何かをやっている人の表現では、最終的に心は動かされない」とも。

「もっともリラックスするのはバイクに乗っている時と音楽を作っている時です」(「SWITCH」 VOL.23 05年)

仕事をしていると精神的にリラックスするとも。

「仕事がないと、仕事がないから不安なんじゃなくて、自分というものが必要とされてない感じがするから不安なんだと思う。」「SWITCH」 VOL.23 05年)

人が安心感を持つのは自分が必要とされている時だと思うと語っています。

「芸名をつけるのはイヤだった」(non-no 95年5月号)

演歌歌手みたいな名前だと言われたこともあったとか。

「年々マジメになってると思いますよ、僕」(an・an 02年5月1日号)

「やりたいことには、きつくても一心不乱に立ち向かう方が楽しいわけで、充実感や達成感といった快楽に前よりも貪欲になった」そうです。

「チイ兄ちゃんじゃないんだよ。おれは福山なんだよ」(「なぜ福山雅治は俳優でも一流になりえたか」さくら真 p.108)

ドラマがヒットしていた時にはそんな風に思っていたそうですが、のちに「今は逆にそう呼ばれたらうれしいと思うんじゃないかな」と語っています。

ファンや視聴者にそうやって楽しんでもらうことが大切だと思うのだそうです。

「僕はドラマをディレクター的な視点からみているのかもしれない。はい、あとは編集しておいてという気にはなれないんです」(「なぜ福山雅治は俳優でも一流になりえたか」さくら真 p.80)

「夢は夢じゃなく人生になった気がしたんです」
(ファン会報より)

俳優として売れ、歌手としても売れてきた93年に語った言葉。この年、5枚目のオリジナルアルバムはオリコンチャート首位を獲得しています。

「最初に「ほんの5g」っていう映画の話が決まって公衆電話からおふくろに「映画決まったんで」って言ったら、「どうせポルノ映画でしょ」って」(福山雅治「伝言」 木村克己 p20)

母親については「放任という愛情」をもらっていたと語っています。

「東京にはてぶらでやってきた」(福山雅治「伝言」 木村克己 p20)

靴下の中に20万円だけいれて、18歳の時に東京に寝台列車でやってきたそうです。

「東京で古着屋をやろうと思う」
(「なぜ福山雅治は俳優でも一流になりえたか」さくら真 p.14)

故郷の長崎を出て東京に出る際、見送りに来てくれた数人の友人に語った言葉。「音楽をやりたい」とは一言も口にしなかったのだとか。