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音楽について:福山雅治の名言、言葉

「バンドをやりたかったんで。ソロシンガーって全く上京する前も東京に来てからも考えてなかった。」(15年4月の言葉)

アミューズに入った時、バンドの話もあったりなかったり・・したそうです。俳優業も全く考えてなかったそうです。

「憧れたものになれていなからこそ、まだ続けようと思う」(15年4月の言葉)

バンドをやりたかったという夢とは違う自分でいることについて語った言葉。もし自分がやりたいことをやれていたら、もうやめていたかも知れない、とも。

「僕は桑田さんみたいな天才じゃないということはほんとに重々承知です」(14年4月 CUT)

ソングライティングはやっていなくて、デビューする前に音楽をやりたいなら曲を持ってきてと言われ、はじめて自分には曲がないことに気づいたのだとか。

「音楽のレコーディングの現場でよく言われるのは、ゆっくり演奏してできないものは速くやってもできない」(13年9月の言葉)

楽器を速く演奏するコツについて。まずはゆっくりと弾いてみることからやって、ミスをなくしていって、その後に少しづつ速く弾けるようになってくると福山さんは考えているようです。

「オレ全部我流だと思うよ。作曲もギターの弾き方もお芝居も。」(13年7月の言葉)

ラジオも先生がいたわけではなく、我流だと語っています。

「感動というものがどこから生まれるかというとチャレンジからしか生まれないと思うんですよね」(NEWS ZERO 13年1月)

ライブで20年ぶりにピアノ弾き語りをしたことについて。『自分自身が感動しているものじゃないと人は感動しない』とも。

「(オリコンで1位を取ることについて「プレッシャー」と答えた上で)プレッシャーを感じられる、その立場に居られることが幸せなことなんだという風に僕は考え方を変えたんですよね。ある時期からね。」(12年10月の言葉)

オリコンチャートで1位を取ることについて、福山さんは「甘い毒」と表現していて、1位を取ると「恍惚と不安が常につきまとう」と語っています。

「(自分の音楽にとって影響を受けたのは)クラプトン、ジミヘン(ジミー・ヘンドリックス)とかですかね。」(ギターマガジン 2012.2)

歌いながら弾いている人に影響を受けたのかも知れないと語っています。

「自分のイメージを具現化するためには、スキルを上げていくしかないんだってことだけはわかってました。」(ギターマガジン 2012.2)

デビュー当初から3枚目のアルバム「BROS.」まで自分の思うような曲ができなかった頃について。

ポップミュージック、ロックミュージックは卒業する音楽ではなくて、それを奏でる人たち、それを聴く人たちも生活をしながら音楽と共にそこに寄り添うようにロックがあるポップがある。(12年5月の言葉)

長年音楽活動を続けてゆくことについて語った言葉。「音楽に対する寄り添い方が随分変わってきたなと感じている」と語っています。

「自分で書いたものは、覚えられないんですよ。」(ファン会報 BROS.#88)

自分で書いた歌は、ボツになった部分が突然頭の中に出てきたりして、なかなか覚えられないのだとか。

「365日×24時間、ずっと音楽のことを考えていたいんです。」(ファン会報 BROS.93)

歌うことが好きでやっているからオンもオフもないそうで、自分が「本社」であり、「社長」であり、「工場」であり「工場長」であるとも。スポーツ選手のように常にトレーニングをして試合に出ることが必要だと語っています。

「(新曲を)今でも一番最初に聴いてもらう時はすごく恥ずかしい。変な話、タイアップがついている方が恥ずかしくない。タイアップだから書いたんだよって言えるじゃん。」(12年4月の言葉)

恥ずかしがり屋な一面を見せた言葉。タイアップがついている方が恥ずかしくないなんて意外だと思った方も多いのでは。

「作品は、常に変化していってる作者の抜け殻ですから」(福山雅治「伝言」 木村克己 p116)

変化することについて。「価値観が変わらない人は基本的に表現者じゃないかなって思ってるんです。」とも語っています。

「あまり(曲の)解説しすぎるとあなたの解釈の邪魔になってもいけないので」(ファン会報 05年9月15日)

福山さんは一度作品を発表したら、その作品は作者の手元を離れてゆくと語っていたことがありました。聴く人なりの解釈があっていいということですね。

「僕の本来の夢はバンドでデビューすることだったので」

雑誌のインタビューで語った時の言葉。ミュージシャンになるという夢は叶ったけれど・・・の後に続けた言葉。しかし、福山さんはその後、柴咲コウさんと「KOH+」というユニット(バンド)を組むことになります。

「何がやりたいかはわからなくても、やりたくないことだけはわかっていた。」

デビュー前に用意された曲を拒否した時の言葉。この後、白浜久さんとの運命の出会いを果たすことになります。

「せめてライブハウスがちゃんと満員になるくらいまでは音楽をやらせてくれ。」

今では信じられないですが、福山さんにもそんな時期があったわけですね。